日々試練、日々ふんばる、しかない
激動の一週間が終わろうとしている。
18日月曜日は、企画総務委員会の正副委員長打ち合わせ。
19日火曜日は、25年度予算内示の全員協議会。
20日水曜日は、企画総務委員会本番。
21日木曜日は、民踊連盟新年会と第1回定例会告示の議運と、議会条件整備検討会。
22日今日は、議員立法のための自主的勉強会。
その合間に、区職員や、各会派の方々との情報交換。
区長選挙のしこりがないと言ったらうそになる。
まして、今日の新聞でも大きく報道されたような、区議会政務調査費をターゲットにした
監査請求である。
議会にもゆるみがある。
1999年、私が三期目の一年目だったと思うが、開かれた議会に大きく舵を切った。
どこにも負けない議会改革、情報公開、自治法で位置づけのない議会に第三者機関の設置、
つまらないことだけれど昼食時間の議運はやめ、議員バッジもつけなくてよいことにした。
議員を先生とよぶようなばかげたことはやめ、議員の賛否は、
名前を呼び上げて議事録に残し、区議会報で公表するようにもした。
議事録は全部公開、傍聴者には議員と同様の資料を配布することを原則とした。
本会議傍聴者には、発言通告を配布するようにした。
記憶しているだけでも、数限りないことが変わった。
こうした改革は、テーブルを一つにしようとすることで進む。
つまり、みんなでやろうね、協力してやろうね、ということだ。
けれど、議会は、選挙という民主主義のイベントや、住民運動という、
議会へのノー、区長へのノー、そうしたことを巡って、考え方が分かれ、仲たがいをする。
私が記憶する限り、1999年の1年を除けば、ほとんどは対立の20年間だった。
そうこうしているうちに、結局、千代田区は根本的な改革に対して、
議会も行政も足踏みをしていたのではないか。(石川さんの一期目の事象は別にして)
馴れ合いではない、いうべきことをいう、ラウンドテーブルを議会につくることが可能だろうか
そのことを考えさせられた一週間だった。そして、いろいろ間に合うだろうかと。
19日全員協議会の夜、それらのことがすべて吹き飛ぶようなことが起きた。
江戸のDNAをつなぐ、神田ブランドの拠点、神田やぶそばさんの火災だ。
さまざまな会議を終えて、神保町の我が家にたどりついたころ、はげしく、あちこちから電話が鳴った。大変だ大変だと。テレビでも放映を始めたらしく、さらにあちこちから。下の子が昌平で同級生なので、お母さん方からも、、、。
荷物を玄関前において、現地に向かった。
千代田にかかわるありとあらゆるみんながいた。
元気なこどもたち、ご家族の姿にこころもちホッとした。
翌日には、半年後に再建に向けて、という記事を読んだ。
企画の委員会では、自民党の幹事長さんが、千代田の宝、日本の宝なのだから
本気出してやれと、区行政に対して、檄をとばしてくれた。まったく、そのとおりだと応じた。
日々試練、そして、
すべての力を合わせてがんばらないといけないのではないかと。